2011年06月07日

娼婦と鯨



地の果てで自問自答した。  君は独りの時―――――どんな人かと・・・


「娼婦と鯨」


なんだか妙に好きな映画。
ラムが飲みたくなる。

最近ようやく落ち着いたような。

本いっぱい借りた。テス・ギャラガーをはじめて読むのです。
posted by 齋藤明 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月03日

わたしが撮った木の何本かは枯れてしまった




彼にカメラを向けたとき、じつはフィルムを入れなかったのが多かったのだ。わたしが欲しかったのは彼の写真ではなかった。カメラは彼を魅了する手段のひとつにすぎなかった。それはわたしが偶然の出来事を見守り、人生の傍観者になるための手段にすぎなかった。写真は―――わたしはすでにたくさんもっていたが―――撮られたものの価値を下げ、つまらないものにしてしまうだけだった―――わたしはそれを本能的に知っていた。それは横合いから奪い取るものであり(<写真をとる>とはよくいったものだ!)、あとになればはるかに小さく、価値のないもになってしまう。それは自分の求めていたものの弱々しい複製にすぎない。


-----------------------------------------------------------

「あの写真が私の人生じゃないんです。むしろ、わたしが撮らなかった写真とそれにまつわるすべてこそがわたしの人生だったんです。」

-----------------------------------------------------------


わたしの撮る一枚一枚に彼女は特別な光をもたらし、わたしの技術を際立たせ、わたしの才能がどんなに貧しいか、わたしのカメラがどんなに無意味か、被写体がどんなに重要かを教えてくれた。


-----------------------------------------------------------


目の欲望。わたしのとって、最高の写真は水の溺れるのと似た経験をさせてくれる作品である。見る者は写真に呑みこまれ、底に沈み、それから、不思議にふわっと軽くなる。そしてふたたび浮き上がったときには、もはや同じ人間ではないのである。


-----------------------------------------------------------


「わたしは自分の仕事に価値があるのかどうか疑っていた。わたしは人生の危機に立たされていた。励ましの声が必要だったのよ。パトロンがつけば才能があることが証明されるだなんて、それこそ最悪の発想だったけど…「わたしは芸術家か?」という問いに対する答えはいつも「ノー」に決まっているわ。なぜなら、ほんものの芸術家はけっしてそんなばかな質問はしないからよ。」

-----------------------------------------------------------


いつの時代でも、ほんとうの恋愛はそんなによくあることじゃないもの。ただ幸運な数少ない人だけが選ばれるのよ。

-----------------------------------------------------------


写真家の卵はたいてい<スクール>に集まり、しきりに<運動>を起こしたがっていたが、わたしはそういう徒党を忌み嫌った。そんなものはたちの悪い活動家の寄り集まりにすぎない――――研究者や批評家に色目を使う、自信のない、さもしい、芸術界のやくざ組織にすぎないと思っていた。

-----------------------------------------------------------


女流写真家は完全に無視されるか―――それはこちらの思う壺だが―――、なにもかも性的なものに結びつけられてからかわられるかのどちらかだった。


-----------------------------------------------------------


人生は一度ではなく、何度もある。しっかりと目をあけていれば、二度目、三度目の人生がつかみとれることをわたしは知っていた。哀れなのは、ひとつの人生にあまりにも多くを期待する人たちだ。一度の人生でありとあらゆる可能性を試してしまい、自分のなかに閉じこもって、精神分裂症など単なる計算ミスにすぎないことを理解しようとしない人たちだ。


-----------------------------------------------------------


そうやっていつも他人に物を見てもらっているから、いつまでたっても自分の目で見られないのかもしれない。いつだって自分の見方を押しつけようとする連中がいる。写真に意味があるとすれば、あまりにも多くの人間の目が、わたしたちを盲目にしてしまっているからだろう。


-----------------------------------------------------------


「あなたの作品は絵画と同じくらい時間を超越している」
「ばかげた比較よ。だれもがすぐにそういうことを言うけど、絵画のどこがそんなに偉大なのかしら?」


-----------------------------------------------------------


それは愛のためだったが、愛は説明にはならない。第三者の目には、愛は利己的なものでしかなく、感覚の麻痺、自制心の欠如にしか見えない。人々が愛する者のなかに見るものは、大食漢のなかに見るものと変わらない―――それは恥知らずな、ちょっと理不尽な欲望であり、惰性であり、合理的には説明できない一種の中毒でしかない。


-----------------------------------------------------------



この展覧会を見れば―――わたしもかつてはそう思っていたのだが―――わたしの人生は豊かで、幸せで、旅やわくわくする出来事にみちた、すばらしい五十年間だったように見えるだろう。ここには挫折もなく、涙もない。けれども、この完璧さは嘘だった。それはわたしの人生のほとんど失敗だったことを隠そうとして隠しきれてなかった。



-----------------------------------------------------------


「写真の館」ポール・セロー
posted by 齋藤明 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。